【人生は解釈】思考が暴走しがちな一般大学生。

”思考”をアウトプットせずにはいられない大学生によるブログです。

”色”を疑う

”色”とは何か。

 

 

人間は様々な刺激を脳で処理し、それを「感覚」と呼ぶ。

 

 

”色”は「波」であり、それ以外の何物でもない。

 

 

にもかかわらず、人はそれを勝手に脳で処理をし、その”色”に感情をのせてみたりする。”波”を感情に変換していると考えると変な感じがするが、事実であると言わざるを得ないであろう。多くの人は青いカレーを好んで食べないし、赤いものを見て冷静にはなれない。

 

 

 

”色”とは何だろうか。本当に存在するだろうか。脳で”色”というものを自分なりに解釈しているだけであり、本当はこの世界は白黒(もしかしたら白と黒という概念も必要ないかもしれない)なのではないか。他の人の見ている”赤”と自分が見ている”赤”は本当に同じであろうか。もしかしたら、自分の見ている”赤”は他の人の見る”青”なのではないだろうか。そうなると、地球が赤い可能性も否定できないのではないか。

 

 

 

しかし、そのように考える私でもスマホを買うときは”色”にこだわるし、部屋の家具の色も焦げ茶色で統一したいと思う。もしも、私が間違えてピンクのカーテンを取り付けてしまったなら、落ち着かなくて寝れないことになるであろう(決してピンクのカーテンを否定しているわけでない、好みでないだけである)。

 

 

やはり、”色”の存在を疑う私であっても、”色”にこだわってしまうのが現実である。

 

 

 

しかし、”色”の違いは単に波長の違いであり”色”にこだわる意味など全くないと主張するものがいても決しておかしくはない。

 

 

 

”色””人間”の解釈は不思議なものである。

 

 

 

以上。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「安逸」は”悪”であろうか

最近私は「安逸」という熟語を知った。

(大学生ながらに恥ずかしいことではあるが私は語彙が少ないということを自覚している)

 

安逸・・・気楽に過ごすこと。何もせずにぶらぶらと遊び暮らすこと。また、そのさま。(goo辞書)

 

しかし、勘の鋭い人であれば、安逸をむさぼることが必ずしも悪いことなのであろうかという疑問が生じるかもしれない。

 

気楽に過ごすこと=悪

 

何もしないこと=悪

 

遊ぶこと=悪

 

と断言できる根拠があるだろうか。

 

 

もしも、気楽に過ごすことが”悪”であるとするならば、人はいつも「気苦労」あるいは「気掛かり」な状態で生きていなければならなくなる。常に、何かに気を配っていたり心配したりしていることが必ずしもよい状態であるといえるだろうか。

 

もしも、何もしないことが”悪”であるとするならば、人は生きているだけも意味があるということを全力で否定していることになる。何もしない草木に向かって何もしないものは生きる意味などないといえるだろうか。

 

もしも、遊ぶことが”悪”であるとするならば、人間にとって「遊んでいない状態」とはどのような状態を示すのだろうか。人は常に”生きるという遊び”をしているではないか。

 

 

 

しかし、私は「安逸」を全力で肯定するということはできない。

 

 

というよりは、するべきではいと考えている。なぜなら、気楽に過ごすこと・何もしないこと・遊ぶことは人間の”弱さ”から生じる可能性が比較的高いからである。

 

確かに、上に示した「安逸」に対する肯定的な見解に対して、完全に否定できるだけの力量は私にはないのだが、それを肯定することが自分にとって”よい”ことであるとはとうてい思えないのである。

 

ニーチェ弱さから生じるすべてのものが”悪”であるの考え方からすれば、やはり「安逸」は”悪”であり避けるべきものであると言わざるを得ないであろう。

 

 

スチューデント・アパシーに対してニーチェは何というだろうか

なんで自分は大学に通っているのか。

 

高校生の時に将来を鮮明にイメージしていたという人であればそういう悩みもなく毎日資格取得や単位を取るための勉強に追われているかもしれない。

 

しかし、この世界にはスチューデント・アパシーというものに悩む(スチューデント・アパシーの人は悩まないという説もあるが私はこの説に否定的である)学生が存在する。

 

ネットで簡単に調べた感じだと、進路が明確でなく目標がない・アイデンティティが確立していない・本業である学業に積極的ではなくなる・バイトやサークル活動には積極的・昼夜逆転などの特徴があるといわれている。また、学業に積極的でなくなるために単位が取れず、留年や退学に向かう学生もいるという。

 

では、なぜこのような事態(スチューデント・アパシー)が生じるのであろうか。

 

それは、

 

善悪の判断ができなくなる

 

からであると私は考える。

 

スチューデント・アパシーに陥った学生は、大学に入るまで「優等生」であった人が多いようだ。

 

優等生、つまり先生や親にいい子だとよく褒められる子である。しかし、これが非常に危険だ。人は褒められると自分が正しいことをしていると思う。勉強をしていれば褒められるし、一生懸命スポーツに打ち込むと褒められる。

 

私が大学生になって思うのは、正しいと間違いは表裏一体であるということである。一生懸命勉強している時間は確かに知識が増えるという意味で正しい行為である。一方で、その間勉強をせずに友達と遊んでいた人たちはコミュニケーション能力の向上という観点から決して間違ったことをしているとは言えない。スポーツに打ち込むことも同じで、一生懸命素振りをすることは目標を達成するために努力を積み重ねる能力を培うという意味では正しいし、スポーツに打ち込まずに本ばかり読むことも知識を増やすという意味で間違いではない。

 

何が言いたいかというと、大学生になると上のような事実に気が付いてしまうのである。何を選んでも正しいし、何を選んでも間違いという中で、何を基準に判断を下せばよいのかわからなくなる。つまり、善悪の判断ができなくなってしまうのである。

 

周りの大人の善悪の基準があてにならない。だから、これまで先生や親に委ねてきた行動の判断を自分で行わなければならない。そうなると、頭の中がこれまで経験したことないほど混乱し、その結果思考が停止してしまうのである。それがアパシー(無気力)状態である。

 

 

というのが最近までの私の状況である(笑)。

 

 

しかし、つい先日こんな言葉に出会って生活が少し変化した。

 

悪とは何か?

弱さから生じるすべてのものである。

 

これは、哲学者で有名なフリードリヒ・ニーチェの言葉である。

スチューデント・アパシーにとって弱さとは、感情のままに過ごし、自分の行動に関する善悪の判断を怠ることであると私は解釈している。

 

大学に通う意義が見いだせないから授業をさぼる。本当にそうであろうか?自分の行動に関する判断ができないから、弱さから生じる感情(朝ねむい、移動がめんどくさい、人と会うのが億劫だ)のまま過ごしているだけではないだろうか?

 

弱さから生じるものはすべてが”悪”である。

 

善悪の判断を下すこと=正しい

善悪の判断を怠ること=間違い

 

そう自分に言い聞かせ、善悪の判断を怠らないようにしていこうと思う。

 

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

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「スポーツをやらない権利」はどこへいったのか

「スポーツをするかしないかということは、誰によってもまたなにによっても侵すことのできない人間の権利としての『私事』に属するということである。」(中村敏雄)

 

 

人間はスポーツをする権利を持つと同時に

 

スポーツをしない権利

 

を持っているのである。

 

しかし、この「スポーツをしない権利」というのが近年侵されつつあると言わざるを得ない。

 

特にそれを感じさせられるのが「体育」の授業である。「体育」の授業というのは小学校・中学校・高校にさらには大学に至るまで必修(少なくとも私の大学はどの学部も必修となっている)の授業となっている。そして、スポーツを強制的にやらされるその状況に違和感を覚えることもなく、そういうものだと解釈しながらその課程を終える。

 

しかし、私たちはこの状況に違和感を覚えるべきであろう。

 

まず、スポーツは一般的に「遊戯、闘争、および激しい肉体運動」(ベルナール・ジレ)の要素があるといわれている。

(より深く考えるとスポーツとは何かという話になるがこれは問いが間違っている可能性が考えられるのでここでは問うことはしないでおく)

 

つまり、スポーツをしない権利を奪われてしまうと、強制的にその競技をやらされる状況が生まれ、その結果「遊戯性」が失われる。すなわち、そもそもその瞬間にその人にとってそのスポーツはスポーツたり得ない状況が生じるのである。

 

そういった意味で「スポーツをしない権利」を侵されてはならないのである。

 

私がこれだけ「スポーツをしない権利」を強調するのは、部活動をやめる権利とも関係してくる。私は数か月前大学の部活動(正確にはサークルであるが部活動に近い)をやめたが、その理由として「競技に熱中できなかったから」と正直に述べた。私の部活動は幸いなことに、様々な「権利」に関して理解のある顧問と部活仲間であったため正当な理由として受け入れられたが、「競技に熱中できなかったから」が受け入れられる部活動というのは現時点ではあまりないのではないかと感じられる。

 

 

 

私たちは「スポーツをする権利」と同時に「スポーツをしない権利」をもっと大切にしていくべきではないだろうか。

 

 

*突っ込みどころが満載な文章ではありますが、「スポーツをしない権利」について考えるきっかけになってもらえると幸いです。

 

 

なぜきのこ党はたけのこ党に負けるのか~交絡因子~

*この記事は圧倒的きのこ派の私が偏った視点からたけのこ派に勝てない理由を考察したものです。

 

きのこ党:42%

たけのこ党:44%

どっちも党:14%

(きのこの山たけのこの里国民総選挙2018)

 

私はどうしてもこの結果に納得できません。

 

なぜなら、どう考えてもきのこの山のほうが美味しいからです。

 

きのこ好きの人間からすると総選挙では80%くらいの票をとってきのこ党が勝つと思っているのです。

 

 

そこで、今回は全世界の80%の人々がきのこ派であることを前提に、なぜきのこ派がいつも投票で負けるのか考察してみたいと思います。

 

*目次*

 

きのこ派は謙虚

きのこ派は謙虚な人が多いのかもしれません。自分はたけのこよりもきのこのほうが好きだけれど、たけのこが好きという人の意見も尊重したい。だから、きのこ派は一歩引いてしまうのです。しかし、内に秘めたきのこ愛は強いので、きのこ派たけのこ派?と聞かれると必ず、きのこ派と正直に答えます。一見全世界でたけのこ派のほうが多いと感じるのは、きのこ派の人が自らそのことを主張しないからではないでしょうか。また、どっちも党が多いのもきっと本当はきのこ派だけどたけのこも決して美味しくないわけではないから、たけのこがかわいそうと感じてどっちも党に投票しているのでしょう。

 

きのこ派は大人

きのこ派は無駄な争いを嫌う大人な考えを持っているかもしれません。別に投票結果でたとえたけのこ派のほうが多かったところで、きのこの里が販売されなくなるようなことはありません。大人な考えを持つきのこ派はそんな争いの無意味さを理解し、わざわざ投票しようという気もちにもならないのです。また、投票する時間があったら、少しでもアルバイトなりをしてお金を稼ぎ、きのこの里を毎日美味しくいただきたいと考えるのです。

 

きのこが勝って当たり前

 きのこ派の人々はきのこが圧倒的勝利をするものだと思い込み、自分の一票の必要性を感じていないのかもしれません。他のきのこ仲間が投票してくれるからと他人任せにしすぎるところはきのこ派の悪い部分であるといえますが、それぐらいきのこの山のほうが美味しいと心の底から思っているのです。その結果、積極的に行動を起こす人々が多いたけのこ党が勝利を収めるという結果に至ってしまったのでしょう。

 

まとめ

この記事で何が言いたいかというと、

 

投票数が多い≠人気

 

というということです。一見投票数が多ければそれに比例して人気があるように思えるかもしれませんが、データは必ず交絡因子を考慮する必要があります。もしも本当に、きのこ派は謙虚、大人、勝って当たり前と思い込んでいるという傾向があったならば、今回の投票結果では、どちらが人気か適切に判断できるとはいえないでしょう。しかし、私たちきのこ派はおそらくこの投票結果を受け入れる必要があるでしょう。なぜなら、きのこ派は謙虚、大人、勝って当たり前と思い込んでいると断言できる論拠がないからです。それでも、私は全世界できのこ派のほうが多く存在するという可能性を求めて、これからもきのこ派が負ける理由を調査していきたいと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

小さなことで喜べる人とそうでない人

世の中には、小さな成功で喜べる人

 

小さな成功では喜んでいられない人とがいます。

 

別に、どちらが悪いということではありません

 

それぞれに良いところがあるのです。

 

*目次*

 

 

小さなことで喜べる人の良いところとは? 

今に幸せを感じられる

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幸せを感じられることは充実した生活を送るうえで非常に重要なことです。子どものころであれば晩御飯がカレーライスであると聞いただけで喜んでいたのではないでしょうか。いつになってもカレーライスで喜べる人は、いつになっても今に幸せを感じられる人です。今後も、日々の生活に満足しながら生きていくことができるでしょう。

 

着実に進歩できる

小さなことで喜べる人は、小さなことでも自分にできることを見つけて自分のものにしていきます。自身の成長に喜びを感じることができるので、挑戦することが苦になることがありません。たとえ挑戦して失敗したとしても、成功に近づいている自分に成長を感じて喜ぶことができるのです。小さなことで喜べる人は、小さな成長を積み重ねることができる人でしょう。

 

小さなことに気が付く

小さなことで喜べる人は、小さなことによく気が付く人です。それは、自分に対してもそうでありますし、他人に対しても同じです。他人の良いところに気が付くことができるのです。もしも、自分の良いところが分からないといって困っている人がいたら、その人の手助けをすることができるはずです。

 

無知を認めることができる 

喜びというのは、自身の成長や成功に対しても生じます。成長や成功に対してその都度喜べるというのことは、過去の自分の無知や能力の不足を認めることができることを意味します。自分の無知や能力の不足を認めることは、自分を育てるうえで大切なことです。

 

小さなことでは喜べない人の良いところとは?

自信を持っている

 

もともと自分の行動に自信を持っている人は、小さな成功で動揺することがありません。たとえば、高校生で数Ⅱの勉強をしている人が、掛け算ができることに喜びを感じません。そして、掛け算ができることに自信を持っているので、それが応用問題になったとしてもそれを解けることに自信を持っています。小さなことで喜べない人は、自分の行動に自信を持つことができる人でしょう。

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向上心が高い

小さなことで喜べない人は、より大きな成長や成功を求める人です。現状で満足することなく、常により高いところを目指しています。大きな喜びを求めて行動できる、非常に志が大きな人と言えるでしょう。

 

時間を有効に使える

時間を有効に使う意識の強い人は、次の成功に向けて時間を使おうとします。そのため、過去のことをいつまでも頭に残しておくわけにはいかないのです。小さな喜びは成功体験として置いておき、いち早く次の行動に移すことができます。したがって、短時間で目標に到達することができるでしょう。

 

カッコいい

小さなことで喜べない人は、比較的男性に多い気がします。常に大きな夢を掲げ「そんな小さなことで喜んでいるわけにはいかない!」と言っている人を見ると、その迫力に圧倒されます。カッコいいオーラを放つことは、周囲に何かしらの影響を与えることに間違いありません。

 

おわりに

おわりに

小さなことで喜べる人も、小さなことで喜べない人にもそれぞれの良いところがあります。こんな小さなことで喜んでいていいのだろうかと悩んでいる人や小さなことで喜べないと悩んでいる人に、少しでもそのメリットを知り自信を持っていただければ幸いです。

 

置き忘れ注意の話から「傘」がゲシュタルト崩壊を起こしクリスマスツリーになるまで【雑談】

*前置き(小説風)*

 昨日の朝、雨が降りそうだったので傘を持って行った。大学のどこかに傘を置き忘れるというのが日常茶飯事であった私は、ツイッターに、「今日学校に傘を忘れてくる予感しかしない、、、」と書き込んだ。こうすることで、大学に傘を置き忘れることを防ごうと考えたのだ。

 もちろん傘を忘れないために様々な工夫をした。傘立てには傘を立てない、移動のたびに傘の所持を確認するなど。その結果、私は帰りのバスを降りるまでその傘を持っていることができた。

 しかし、その後だ。なんと傘を立ててしまったのだ……傘立てに。私はどうしてもミルクティが飲みたくて、コンビニに寄ったのだった。ミルクティを買った私は、その味に満足して家まで歩いた。

 次の日の朝。……傘がない(涙)

 

【傘を忘れないために】

1.ツイッターに書き込む

2.傘立てに立てない

3.移動のたびに傘を確認

4.コンビニに寄らない〔New!〕

5.家に着いたら傘を確認〔New!〕

 

これだけ「傘」という字を打ち込むと、ゲシュタルトが崩壊してきそうだ。

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↑もともとゲシュタルトが崩壊したような「傘」ですいませんm(__)m

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【完成】「傘」の面影もほとんどなく立派なクリスマスツリーになりました!

 

 

以上、暇な大学生の雑談に付き合っていただきありがとうございました。

*季節外れでごめんなさい