【押し売り】演じる勇気で大きな損失を避ける
やられました(涙)。
知らない地で買い物をしたとき、押し売りに負けてて要らないもの(しかも高いもの)を買ってしまったを言う経験はありませんか?
*目次*
はじめに
私は先日、韓国の明洞という町で爆買いをしに行きました。目的は、欲しいメイク道具や服を買うこととチーズタッカルビやサムゲタン、可愛いパフェなど美味しい食べ物を食べることでした。
しかし、明洞はすごい(ヤバいのほうが適当かもしれません)です。
めちゃくちゃ話しかけてきます。
そして、うまく買うように誘導してきます。
こんな感じの流れで買わされます
店:コンシーラーとこの商品がこの店のおすすめだよ~
私:コンシーラー見てみようかな(コンシーラーの所に移動)
店:手、出して
私:(手を出す)
店:(ちょんちょん、ちょんちょん)こっちがいいね!はい(渡す)
私:(コンシーラー渡される)えっ……。
店:ちょっと来て(高いおすすめの商品のほうに誘導)
私:(ついていく)
店:つけてみて
私:(ぬりぬり)
店:これはね、夜つけるの。しわが伸びてとてもいいの。今、これ2本買ったらこれとこれ(洗顔とパック)もつけるよ。それで、これはシリコンので塗らないと……(長い)。
私:いくらですか?
店:2本で1万円、ちょっと高いけど、おすすめ。だけど今マイナス3000ひいて7千円だよ。あとこれもこれもつけるよ。
私:……いいです。(コンシーラー買いにレジに移動)
店:(レジの前でもひたすらさっきの用品を押す、さらに社長らしい人が現れる)
社:ニホンゴハナセナイ。(といった後、ひたすら私の肌が荒れていると言ってくる、通訳は店員)
私:じゃあ一本ください。(あきらめ)
店:2本じゃないと効果でないよ、2本で二か月だよ。
私:1本でいいです。
店、社:(不機嫌な顔)
店:分かった。
私:(お金渡す)
店:パスポートある?
私:(渡す、たぶん免税された?)
終了。
ちなみに店員は日本語のうまい韓国人で、とても早口で言ってきます(言いなれてる感じです)。レシートを見ると「免税後返品交換できません」の文字。結局5000円無駄に使ってしまいました。商品自体は悪いものではないみたいです。しかし、押し売りされて買ったという思い出が要らないです。正直お金を払っていでも手放したいくらいです(思い出がマイナスすぎて……)
あえて、店の名前も見せますね(笑)。金色の細いほうが押し売りされたものです。レシートの右上には「免税後返品交換できません」の文字。
こうすればよかった(対策)
まあ、ここまでは店に対する愚痴みたいな感じです(笑)。
大事なのは、
どうすれば5000円という大金を失わずに済んだか
を考えることです。
考えた結果2つの対策方法が見つかりました。
1つ目は、事前の情報収集です。
私が押し売りされた店は、押し売りやクレジットカードの詐欺で有名だとネットで調べたらすぐにわかりました。つまり、事前に避けた方がいい店を調べておけばよかったのです。事前の情報収集を怠ったための損失だったのです。
2つ目は、強気を演じる勇気です。
強気の女性を一瞬だけ演じればよかったのです。コンシーラーを買って、あとは要らないとはっきり、かつちょっと切れ気味な感じで言ってしまえばよかったのです。旅行先の店員(しかも海外)と仲が悪くなったところで、私にとってのデメリットなどありません。また、向こうの店員も多くの客に不機嫌な態度をとられていることは目に見えますから、そのうちの一人となったところで大きなデメリットはないのです。つまり、デメリットが生じるのは私が5000円を払ったときだけなのです。
まとめ
みなさんは、事前の情報収集と強気を演じる勇気を持って旅行を楽しんでほしいです。もし、事前の情報収集が万全で、強気を演じる勇気もばっちりあるという方は、この記事で紹介したようなお店に入ってみるのも旅の楽しみ方のひとつかもしれません(おすすめしているわけではないですよ(笑))。また、今回は押し売りの店の紹介でしたが、あまり話しかけられない店もありました(エチュー〇ハウスやオリー〇ヤんなど)。話しかけてくる店は出る、話しかけられない店で買うというのが個人的にはいいと思いました。みなさんはどうか、押し売りに負けないでください。押し売りに負けることほど、大きいなデメリットが生じることはありませんので。
お世辞は必要か【本音】
自分が納得していない髪型に対して「いいね!」といわれたり、あんまり可愛くないなと思う持ち物に対して「可愛い」といわれたりしてなんとも言えない気持ちになったことはないだろうか。
人は価値観が同じ人を好む傾向にあり、お世辞を言うのは好かれたいという気持ちからなのであろう。確かに、好かれる技術を身に着けることを全否定するつもりはない。
しかし、
お世辞を言うことは、あまりにもデメリットが多い。
例えばである。
自分が似合っていないと思っているその髪型を、お世辞で褒められたとする。すると、お世辞を言われた側は自分とは価値観が合わないと判断する。この時点で、デメリットの発生である。さらに、そのお世辞に対して「ありがとう」と返してしまったなら、お世辞を言った側も、相手と価値観があっていないと感じる。つまり、本当は同じ価値観であるはずなのに、互いに価値観が合わないと思ってしまうのである。また、もしもお世辞を言われた側が正直に似合ってないと思うと伝えたなら、お世辞を言った側はお世辞を言うメリットである「好かれる(価値観があっていると思わせる)」という目的さえも果たせず、お世辞を言う労力は一瞬で無駄なものとなってしまい後悔の念に襲われるであろう。
お世辞を言って、自分の嘘の価値観を相手に植え付けるくらいなら、自分の価値観を主張して嫌われる方がいい(おそらく嫌われるということはない)。
自分の価値観と他者の価値観が衝突したときに、本当の自分の価値観というものを知ることができる。もしかしたら、自分の価値観が変化するかもしれないし、相手の価値観を変えてしまうことがあるかもしれない。とてもいいことである。もっともっと価値観を衝突させて、自分というものを知っていくべきだ。
そのような点において、私はネット炎上(意見に関する炎上)に関して肯定的である。ネットでコメントする側にメリットがあるかは別として、炎上してしまった側は、他者との価値観の大きな違いに気が付くことができる。その結果、改めて自分の価値観について考え直すという機会が与えられる。炎上した側のメリットは非常に大きい。
だが、それでも褒められるとうれしいというのは確かである。
相手の髪型が似合ってないなと感じたら、お世辞を言うのではなく、別の観点から見て「似合っている」可能性はないか考え、それを伝えたうえで自分の好みではないことを主張するとよいかもしれない。
決して、唐突に
「ダサい…」
などと言ってはいけない。
自分の価値観さえきちんと伝わればよく、わざわざ自分から嫌われに行くメリットはない(今後の関係性にもよるが)。
お世辞を言うことを避け、うまく自分の価値観を伝える技能を身に着けるべきであろう。
”誤審”という魅力
”誤審”は人間のミスによるものである。
柔道の大会において、審判の技量不足による”誤審”が問題となり、その審判は2ヵ月の資格停止と降格の処分が下された。
私は、「柔道」というスポーツ(武道)を知らないので、安易にこの処分が適正か否か判断することはできないが、議論の余地があると言わざるを得ない。
もしも、これが野球だったら一体どうなるだろうか。
ピッチャーの投げた球が明らかにストライクであるにもかかわらず、球審はボールの判定を下した。
よくある事例ではあるが、審判としての仕事がなくなるという事例は聞いたことがない。それどころか、誤審が多い審判はその故に有名になるということすらある。(あくまでプロ野球において)
スポーツにおいて”誤審”が否定される理由として「卓越性が曖昧になる(勝敗がはっきりしない)」ということが挙げられる。
しかし、”誤審”が生じた場合の人々の反応を見てみると、「卓越性が曖昧になった」と言って怒る人は少なく感じる。それよりかは、その”誤審”が生じたワンプレーに対して、様々な見解を述べるものの方が多い。なぜそのような判定に至ったのだろうか、あの角度から入ってきたら自分でもボールと言ってしまうかもしれない、野球に詳しくないからよくわからないけど審判が間違えたっぽい……等々。
”誤審”から様々な見解が生まれる。つまり、”誤審”は少なからず人々の感情を動かすのだ。
現在、ホームベース上におけるクロスプレーについてはビデオ判定が認められるようになった。それにつづいて、他の場面においてもビデオ判定を用いるべきではないかという意見が少なからずある。
しかし、私はビデオ判定反対派である。
”誤審”は人々の感情を動かす、スポーツの魅力の一つである。
ゼロに限りなく近づいてほしいと願いながらも、ゼロになることはあってはならない。
今回の、柔道における2ヵ月の資格停止や降格処分は”誤審”をゼロに近づけるという意味では正しい判断であると言えるかもしれない。
しかし、間違えても誤審を”ゼロ”にしてしまおうという決断には至ってほしくない。
”誤審”はスポーツの魅力である。
私は、そう考える。
以上。
*”誤審”などで卓越性が曖昧になった試合を「失敗した試合」と呼ぶこともあるが、私は「失敗した試合」に否定的ではない。
”色”を疑う
”色”とは何か。
人間は様々な刺激を脳で処理し、それを「感覚」と呼ぶ。
”色”は「波」であり、それ以外の何物でもない。
にもかかわらず、人はそれを勝手に脳で処理をし、その”色”に感情をのせてみたりする。”波”を感情に変換していると考えると変な感じがするが、事実であると言わざるを得ないであろう。多くの人は青いカレーを好んで食べないし、赤いものを見て冷静にはなれない。
”色”とは何だろうか。本当に存在するだろうか。脳で”色”というものを自分なりに解釈しているだけであり、本当はこの世界は白黒(もしかしたら白と黒という概念も必要ないかもしれない)なのではないか。他の人の見ている”赤”と自分が見ている”赤”は本当に同じであろうか。もしかしたら、自分の見ている”赤”は他の人の見る”青”なのではないだろうか。そうなると、地球が赤い可能性も否定できないのではないか。
しかし、そのように考える私でもスマホを買うときは”色”にこだわるし、部屋の家具の色も焦げ茶色で統一したいと思う。もしも、私が間違えてピンクのカーテンを取り付けてしまったなら、落ち着かなくて寝れないことになるであろう(決してピンクのカーテンを否定しているわけでない、好みでないだけである)。
やはり、”色”の存在を疑う私であっても、”色”にこだわってしまうのが現実である。
しかし、”色”の違いは単に波長の違いであり”色”にこだわる意味など全くないと主張するものがいても決しておかしくはない。
”色”と”人間”の解釈は不思議なものである。
以上。
「安逸」は”悪”であろうか
最近私は「安逸」という熟語を知った。
(大学生ながらに恥ずかしいことではあるが私は語彙が少ないということを自覚している)
安逸・・・気楽に過ごすこと。何もせずにぶらぶらと遊び暮らすこと。また、そのさま。(goo辞書)
しかし、勘の鋭い人であれば、安逸をむさぼることが必ずしも悪いことなのであろうかという疑問が生じるかもしれない。
気楽に過ごすこと=悪
何もしないこと=悪
遊ぶこと=悪
と断言できる根拠があるだろうか。
もしも、気楽に過ごすことが”悪”であるとするならば、人はいつも「気苦労」あるいは「気掛かり」な状態で生きていなければならなくなる。常に、何かに気を配っていたり心配したりしていることが必ずしもよい状態であるといえるだろうか。
もしも、何もしないことが”悪”であるとするならば、人は生きているだけも意味があるということを全力で否定していることになる。何もしない草木に向かって何もしないものは生きる意味などないといえるだろうか。
もしも、遊ぶことが”悪”であるとするならば、人間にとって「遊んでいない状態」とはどのような状態を示すのだろうか。人は常に”生きるという遊び”をしているではないか。
しかし、私は「安逸」を全力で肯定するということはできない。
というよりは、するべきではいと考えている。なぜなら、気楽に過ごすこと・何もしないこと・遊ぶことは人間の”弱さ”から生じる可能性が比較的高いからである。
確かに、上に示した「安逸」に対する肯定的な見解に対して、完全に否定できるだけの力量は私にはないのだが、それを肯定することが自分にとって”よい”ことであるとはとうてい思えないのである。
ニーチェの弱さから生じるすべてのものが”悪”であるの考え方からすれば、やはり「安逸」は”悪”であり避けるべきものであると言わざるを得ないであろう。
スチューデント・アパシーに対してニーチェは何というだろうか
なんで自分は大学に通っているのか。
高校生の時に将来を鮮明にイメージしていたという人であればそういう悩みもなく毎日資格取得や単位を取るための勉強に追われているかもしれない。
しかし、この世界にはスチューデント・アパシーというものに悩む(スチューデント・アパシーの人は悩まないという説もあるが私はこの説に否定的である)学生が存在する。
ネットで簡単に調べた感じだと、進路が明確でなく目標がない・アイデンティティが確立していない・本業である学業に積極的ではなくなる・バイトやサークル活動には積極的・昼夜逆転などの特徴があるといわれている。また、学業に積極的でなくなるために単位が取れず、留年や退学に向かう学生もいるという。
では、なぜこのような事態(スチューデント・アパシー)が生じるのであろうか。
それは、
善悪の判断ができなくなる
からであると私は考える。
スチューデント・アパシーに陥った学生は、大学に入るまで「優等生」であった人が多いようだ。
優等生、つまり先生や親にいい子だとよく褒められる子である。しかし、これが非常に危険だ。人は褒められると自分が正しいことをしていると思う。勉強をしていれば褒められるし、一生懸命スポーツに打ち込むと褒められる。
私が大学生になって思うのは、正しいと間違いは表裏一体であるということである。一生懸命勉強している時間は確かに知識が増えるという意味で正しい行為である。一方で、その間勉強をせずに友達と遊んでいた人たちはコミュニケーション能力の向上という観点から決して間違ったことをしているとは言えない。スポーツに打ち込むことも同じで、一生懸命素振りをすることは目標を達成するために努力を積み重ねる能力を培うという意味では正しいし、スポーツに打ち込まずに本ばかり読むことも知識を増やすという意味で間違いではない。
何が言いたいかというと、大学生になると上のような事実に気が付いてしまうのである。何を選んでも正しいし、何を選んでも間違いという中で、何を基準に判断を下せばよいのかわからなくなる。つまり、善悪の判断ができなくなってしまうのである。
周りの大人の善悪の基準があてにならない。だから、これまで先生や親に委ねてきた行動の判断を自分で行わなければならない。そうなると、頭の中がこれまで経験したことないほど混乱し、その結果思考が停止してしまうのである。それがアパシー(無気力)状態である。
というのが最近までの私の状況である(笑)。
しかし、つい先日こんな言葉に出会って生活が少し変化した。
悪とは何か?
~弱さから生じるすべてのものである。
これは、哲学者で有名なフリードリヒ・ニーチェの言葉である。
スチューデント・アパシーにとって弱さとは、感情のままに過ごし、自分の行動に関する善悪の判断を怠ることであると私は解釈している。
大学に通う意義が見いだせないから授業をさぼる。本当にそうであろうか?自分の行動に関する判断ができないから、弱さから生じる感情(朝ねむい、移動がめんどくさい、人と会うのが億劫だ)のまま過ごしているだけではないだろうか?
弱さから生じるものはすべてが”悪”である。
善悪の判断を下すこと=正しい
善悪の判断を怠ること=間違い
そう自分に言い聞かせ、善悪の判断を怠らないようにしていこうと思う。
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「スポーツをやらない権利」はどこへいったのか
「スポーツをするかしないかということは、誰によってもまたなにによっても侵すことのできない人間の権利としての『私事』に属するということである。」(中村敏雄)
人間はスポーツをする権利を持つと同時に
スポーツをしない権利
を持っているのである。
しかし、この「スポーツをしない権利」というのが近年侵されつつあると言わざるを得ない。
特にそれを感じさせられるのが「体育」の授業である。「体育」の授業というのは小学校・中学校・高校にさらには大学に至るまで必修(少なくとも私の大学はどの学部も必修となっている)の授業となっている。そして、スポーツを強制的にやらされるその状況に違和感を覚えることもなく、そういうものだと解釈しながらその課程を終える。
しかし、私たちはこの状況に違和感を覚えるべきであろう。
まず、スポーツは一般的に「遊戯、闘争、および激しい肉体運動」(ベルナール・ジレ)の要素があるといわれている。
(より深く考えるとスポーツとは何かという話になるがこれは問いが間違っている可能性が考えられるのでここでは問うことはしないでおく)
つまり、スポーツをしない権利を奪われてしまうと、強制的にその競技をやらされる状況が生まれ、その結果「遊戯性」が失われる。すなわち、そもそもその瞬間にその人にとってそのスポーツはスポーツたり得ない状況が生じるのである。
そういった意味で「スポーツをしない権利」を侵されてはならないのである。
私がこれだけ「スポーツをしない権利」を強調するのは、部活動をやめる権利とも関係してくる。私は数か月前大学の部活動(正確にはサークルであるが部活動に近い)をやめたが、その理由として「競技に熱中できなかったから」と正直に述べた。私の部活動は幸いなことに、様々な「権利」に関して理解のある顧問と部活仲間であったため正当な理由として受け入れられたが、「競技に熱中できなかったから」が受け入れられる部活動というのは現時点ではあまりないのではないかと感じられる。
私たちは「スポーツをする権利」と同時に「スポーツをしない権利」をもっと大切にしていくべきではないだろうか。
*突っ込みどころが満載な文章ではありますが、「スポーツをしない権利」について考えるきっかけになってもらえると幸いです。