【人生は解釈】思考が暴走しがちな一般大学生。

”思考”をアウトプットせずにはいられない大学生によるブログです。

”誤審”という魅力

”誤審”は人間のミスによるものである。

 

柔道の大会において、審判の技量不足による”誤審”が問題となり、その審判は2ヵ月の資格停止と降格の処分が下された。

 

私は、「柔道」というスポーツ(武道)を知らないので、安易にこの処分が適正か否か判断することはできないが、議論の余地があると言わざるを得ない。

 

 もしも、これが野球だったら一体どうなるだろうか。

 

ピッチャーの投げた球が明らかにストライクであるにもかかわらず、球審はボールの判定を下した。

 

 よくある事例ではあるが、審判としての仕事がなくなるという事例は聞いたことがない。それどころか、誤審が多い審判はその故に有名になるということすらある。(あくまでプロ野球において)

 

スポーツにおいて”誤審”が否定される理由として「卓越性が曖昧になる(勝敗がはっきりしない)」ということが挙げられる。

 

しかし、”誤審”が生じた場合の人々の反応を見てみると、「卓越性が曖昧になった」と言って怒る人は少なく感じる。それよりかは、その”誤審”が生じたワンプレーに対して、様々な見解を述べるものの方が多い。なぜそのような判定に至ったのだろうか、あの角度から入ってきたら自分でもボールと言ってしまうかもしれない、野球に詳しくないからよくわからないけど審判が間違えたっぽい……等々。

 

”誤審”から様々な見解が生まれる。つまり、”誤審”は少なからず人々の感情を動かすのだ

 

現在、ホームベース上におけるクロスプレーについてはビデオ判定が認められるようになった。それにつづいて、他の場面においてもビデオ判定を用いるべきではないかという意見が少なからずある。

 

しかし、私はビデオ判定反対派である。

 

”誤審”は人々の感情を動かす、スポーツの魅力の一つである。

ゼロに限りなく近づいてほしいと願いながらも、ゼロになることはあってはならない。

 

今回の、柔道における2ヵ月の資格停止や降格処分は”誤審”をゼロに近づけるという意味では正しい判断であると言えるかもしれない。

 

しかし、間違えても誤審を”ゼロ”にしてしまおうという決断には至ってほしくない。

 

”誤審”はスポーツの魅力である。

 

 私は、そう考える。

 

 

以上。

 

*”誤審”などで卓越性が曖昧になった試合を「失敗した試合」と呼ぶこともあるが、私は「失敗した試合」に否定的ではない。