【人生は解釈】思考が暴走しがちな一般大学生。

”思考”をアウトプットせずにはいられない大学生によるブログです。

【二律背反】選べないのは当たり前

ツーブロックは禁止するべきだ」、「ツーブロックは禁止する必要はない」。

「学校には行くべきだ」、「学校には行かなくてもいい」。

一向に、答えが出ない議論。

 

真逆のことを言っているのに、どちらも正しい。

正直、この事実を受け入れるには少し時間がかかった。

 

どちらも正しいのであるから、選べなくて当たり前である。

 

大学生であれば・・・

テーゼ:大学1年生は、就職について深く考えていくべきである。

アンチテーゼ:大学1年生は、就職のことは深く考えないべきである。

 

どちらも、自分に適した企業に就職したいという願望は同じである。しかし、大学一年生の時から就職を意識して計画的に過ごすことで、適職に着けるか。それとも、就職のことは後回しで大学4年間でやりたいことをやって、それを就活でアピールする方がよいか。

 

正直、ある程度計画をたてて、自由な時間も確保すればよいと考えるのが無難ではあるが、意外と「就活対策と自由時間」に関する葛藤というのは少なくなく、その都度悩んでしまうものである。

 

例えば、使うかわからない資格を取るために、その必須科目の単位を取ることに多くの時間を費やすべきか。使うかわからない資格のために、どうせ1年もたてば忘れるであろう知識を時間をかけて頭に詰め込むべきか。テストで良い点を取ることにこだわるべきか。成績にこだわるべきか。

 

資格を取れば、履歴書に記載できるし、就活で優位に働く可能性が高い。

資格を取らずに、自由な時間を増やし、やりたいことに時間をかけることで、就活でアピールができる。

 

 

テーゼとアンチテーゼは、相反するが、考えても考えても、どちらも正しく、どちらかが間違っていると断言することができない。

 

もちろん、考える中で、この二つの事柄がまったく異なることを示しているわけでないことに気が付くこともある。

上の例では、「就職について深く考えるべき」と「就職について深く考えないべき」という部分だけを見ると矛盾しているようだが、後者は、就職について深く考えた結果、「就職について深く考えないべき」という結論を導いているのである。

 

どれだけ考えても、どちらも否定できる根拠が見つからない場合にいったん思考を止められればいいのだが、いつかどちらかを否定できると信じて考え続けてしまう可能性がある。

哲学をするのであれば、それでいいのだが、日常生活においては、答えを出すことにあまり時間をかけすぎるとよくない場合が多い。

 

 

どちらも正しくて選べないのが当たり前であるという前提で、自らの直観に従い、

「選択する勇気」を持つことが大事なのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

以上。

 

 

 

 

 

 

【高校受験がすべてではない】大学生の今

「高校受験がすべてではない。」

 

中学三年生の時、社会科の先生が雑談でそう言ったのを覚えている。

 

正直、その時は「そうはいっても受験は大事でしょ……。」と思った。

 

高校受験のためにまじめにテスト勉強をし、高い成績を維持した。

 

今思うと、後悔はしていないがバカだったと思う。

 

高校は推薦で合格し、受かった高校でも楽しく過ごし、大学受験も成功したので高校受験自体は失敗したわけではない。

 

違う。

 

問題なのは、中学三年間の“善悪”の判断基準が「高校受験」であったことである。

 

髪を染めると受験にひびく。成績を落とすと受験にひびく。先生からの評価が下がると推薦がもらえない。

 

「高校受験」という一つに基準をおき、それをもとに“善悪”を判断していた自分。

 

友人関係がうまくいかなかった原因の一つはそこにあると反省している。高校受験において、友人関係に関することはそこまで評価されない。そう言って、よい友人関係を築くことには一切の力を入れず、勉強に逃げた。

 

逃げ道が勉強であったことにより、社会から逸脱することなく生きているということが唯一の救いである。

 

もしもあの時高校受験で失敗していたら……。そう考えると恐ろしい。

 

あんなに勉強したのに。あんなに受験のために3年間を費やしたのに。そう言ってただろう。

 

大学生の今

今、私は大学生であり、次のステップは就職である。

 

公務員になるか、企業に勤めるか、職種は何か。

 

一年ほど前から毎日のように考えている。

 

部活をしていれば就活でアピールできるのになぁ。大学の組織に入りリーダーになることができたら就活でアピールできるのになぁ。毎日のようにアルバイトばかりしているなんて就活でアピールできないよなぁ。簡単な自己紹介ですら緊張して人前でうまくできないなんて面接で落とされるよなぁ。

 

 

「就活がすべてではない。」

 

 

就活で失敗して、条件の悪い企業に勤めても人生が終わるわけではない。条件のよい職場に就職できても、そこで一生働き続けていける保障もない。もしかすると、運よく大金が手に入り、働かなくても生きていける環境が手に入るかもしれない。

 

 

残り二年の大学生生活。もちろん、就活に手を抜くわけにはいかない。しかし、たとえ就活でうまくいかなかったとしても、充実した大学生時代だったといえるような日々を過ごしていきたい。

 

 

 

以上。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【守秘義務】先生間の情報の共有と生徒の内心

誰にも話さないで欲しいと思いながら伝えたのに……。

 

その日には、親にばらされ、数人の先生が知ることとなった。

 

情報の共有。先生にとっては当たり前のことらしい。

 

子どもと大人の間では、秘密を守るという人間的に当たり前とされる約束というものは果たされなくてもよいものだろうか。

 

いじめや人間関係の悩みを相談できない原因の一つは、先生同士や先生と親での情報の共有にあるのではないだろうか。

 

いじめられているときに言わなければ、それを知るのはいじめる人たちと自分だけ。

いじめられているときに先生に言えば、それを知るのはいじめる人たちと自分と、学年の先生たちと親。さらに先生たちと親がそれを広めないという保証はない。

 

いじめられている人だってそれなりにプライドというものがあるから、自ら自分はいじめられるような人間ですと公言したくはない。

そんな弱みを多くの先生に知られるくらいなら我慢する方がましだ。

 

先生が直接自分に、学年会議で言ったことを伝えてこなくても、クラス分けで仲の悪い人全員と離されればさすがに察する。ありがたい気遣いでありながらも、嬉しい気分にはなれない。

 

あの先生も知ってるんだろうなぁ、この先生も本当は知ってるんだろうなぁ。そんなことを思いながら過ごした中学3年生。

 

高校生になると、情報は共有される(裏で噂がひろがる)前提で過ごしていたためにそこまで驚くようなこともなかった。

 

 

 

何かあった時に子どもを守るための情報の共有。子どものための情報の共有。

しかし、本人の許可なく他人に秘密を漏らす人間を私は信用できない。相手が大人であっても子どもであっても秘密を守るという約束の硬さは変わらない。もしも、子どもとの約束だから守る必要がないという考えならば、それは先生(大人)という権力の悪用ではないか。

 最後に

先生が子どもとの秘密を守らないことは権力の悪用ではないかと述べたが、これは先生が守秘義務を怠っているとは言えないことは理解している。

 

実際に先生が情報を共有することで、嫌な人とクラスを別にしてもらえたわけである。「あの先生も知っているんだろうなぁ」という気持はありながらも、その後のクラスメイトとは非常に楽しく過ごすことができたのも事実である。

 

先生間と自分の親までの範囲に留められていると考えれば、先生という職業においては秘密を内部にと留めていると判断できるだろう(つまり、守秘義務は果たされていると判断できる)。

 

しかし、生徒側の目線から見た内部というのは生徒自身と相手の先生だけなのである。相手の先生は一人間として子どもとの秘密を守るか、先生という役職として情報を共有するかという選択をしなければならず、やはり大人として仕事の方を選ぶのだろう。

 

 

自らの“善”に反する行為を選択せざるを得ないような職業につくことはできる限り避けたいものである。

 

 

 

 以上。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時間の“妥協”

最近、お金時間について考えることがある。

 

そして、お金時間について考えながら、これについて考えることに時間を費やして本当に意味があるのかという深みにはまり、さらに時間を費やす。

 

学生は自由な時間が多く、その自由さ故にバイト資格取得趣味勉強ボランティアかの選択に非常に悩み、決断が遅いほど時間だけが削られていく。だからと言って、浅はかな判断では、お金も時間も無駄にし、何かしらの経験すら浅いものになり兼ねない

 

現在、私は春休みの真っただ中であり、多くの時間をアルバイトに費やしている。毎日のように、果たしてこんな生活でよいのかと考えるが、10分悩んでいる間にも130円稼げると考えると、やはり悩むより行動が大切だと判断できる。

 

しかし、難しいのは時間をかけることにより、大きな金額が手に入る可能性がある場合である。しかし、これは可能性であって確実に手に入るわけではない。例えば、給付型奨学金の手続き。様々な条件をクリアする必要があり、時間をかけて書類を記載しても、必ずお金が入ってくるという保証はない。

 

何に時間を費やせばいいか、アルバイトで稼いだ方がいいか、大学の組織(部活、ボランティア、研究の手伝い)で活動するべきかなどの判断は非常に難しい。

 

時間の“妥協”(結論)

私たちは、時間を無駄にする覚悟というものが必要なのかもしれない。

正直、アルバイトに時間を費やすことが、正しい選択かは分かるものではないが、毎日何かしらの出来事が起き、一つ一つ対応していくというような経験は確実にできている。ついでに、お金も入る。おそらくこれ以上、バイトに時間を費やすことに関して考えることは無意味であろう。

 

時間の“妥協”は経験につながり、総合的にみると充実した生活をおくることにつながると私は考える。

 

しかし、この結論が当てはまるのは、考えすぎて何事にも手をつけられなくて悩んでいる人である。正直、何も考えずにとにかく行動に移せる人は、私からしたらうらやましいくらいであるが、そのような人になることはできない。どうせなら、考えることは自分ならいつでもできるという自信を持ち、行動に移せればいいと思う。

 

時間に関して“妥協”することで、行動が早くなり、時間に余裕が生まれる。うまくいけば忙しくなる可能性もあるが、充実した時間を送ることができる。

 

周りの、「時間を大切にしろ」という言葉は、あながち間違いとは言えないのだが、時間を大切にする気持ちが時間を無駄にすることにつながる可能性があるということを理解する必要があるだろう。

 

 

 

以上。

 

 

 

 

太陽を見て何を思うか

 

太陽を見て何を思うか?

 

眩しい…

 

暑い…

 

今日は雲に隠れて見えない…

f:id:specialkimagurelife:20190221132233j:plain

 

私の場合はこう…

あ、今日は晴れてる。

あったかいなあ。

でも人があたたかいと感じるのは、太陽から放出された赤外線が肌を刺激して、その刺激を脳で感じているだけであって……あったかいってなんだろ~?

 

しかし、友人の場合はこう…

あ、太陽だ。

太陽に触れることができる人っていないんだよなぁ。

近づいたら蒸発しちゃうし。

それにしても宇宙ってどこまで広いんだろう。

とゆうか宇宙の外側ってなんだ……?

 

 

太陽を見て人間を感じた私と、太陽を見て宇宙を感じた友人。

 

見たものは眼の外側にあるのではなく、眼のこちら側でつくった世界であることがより否定できなくなる出来事でした。

 

 

 

 

以上。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【日常】混雑するスーパーには交通ルールを

先日、飲み物でも買おうとあるスーパーに寄った時のこと。

 

歩けない。

 

まっすぐドリンクコーナーに行きたいが、あっちもこっちも行き止まり。

 

あそこは通れると思い、大通り(比較的大きめの道)を歩くも、ひょこっと小道から飛び出してくるカート。

 

100円のドリンクを手に入れるのに10分。10分というのは、時給900円のバイトで換算すると130円。100円のドリンクを手に入れるために130円分の時間を損失している。

 

大問題である。

 

今回は、私が個人的にスーパーにおいてこんな交通ルールがあればいいのにと思ったのでまとめてみた。

 

*目次*

 

店内は徐行

混雑している店における早歩き以上のスピードでの移動は厳禁です。もちろん、一本道で見通しがよければ少々スピードを出しても大丈夫です。一般道路と違って、建物から人や車が飛び出してくるというようなことはありません。しかし、交差点付近や人が多い通路は徐行しましょう。衝突してから後悔しても遅いです。スピード違反で捕まることはないですが、衝突した時の気まずさは半端ないです。

 

商品を見る時は棚際に寄る

たまに通路のど真ん中から商品を眺めている方がいらっしゃいます。前を通るのは気が引けますし、後ろを通るにも若干狭いという状況です。そういう場合は、存在感を出しながら後ろを通過して、若干前によけてもらうという方法で切り抜けるとよいのですが、通路をスムーズに通過したいというのが本望です。棚の商品を見る時に、少しだけ棚際に寄ってもらえるだけで、他の人はスムーズに通路を通ることができるのです。

 

不意のUターンは禁止

人が多い店内でも、比較的スムーズに前に進める時があります。それはある程度、人が流れる方向が定まっているときです。しかし、油断は禁物です。不意にUターンをかましてくる人がいます。対策としては、ある程度前者との距離をあけておくことです。接近しすぎると、不意のUターンによる衝突事故に巻き込まれます。Uターンをする側は、まずはゆっくりとスピードを落としたのちに一旦停止し、後方確認を終えた後にUターンを行うようにしましょう。決してスピードを出した状態から、唐突に後ろに方向を転換するようなことはしてはいけません。

 

優先通路を意識

f:id:specialkimagurelife:20181229213604p:plain

スーパーにおける優先通路

基本的に太い通路が優先です。例えば、上の図のようなスーパーの場合は、A通路が最優先通路、B通路が二番目の優先通路になります。細い通路から優先通路に出る場合は、一時停止をすることで衝突を防ぐことができます。もちろん、車ほどスピードが出ているわけではありませんので、完全に一時停止をするという規則まで設ける必要はないかもしれません。しかし、一番衝突の危険性が高いのは見通しの悪い交差点です。細い通路から出る際に、停止するくらいの気持ちでスピードを落とし、人と衝突しないことを確認したうえで、通路に出るとよいのではないでしょうか。

 

交差点を塞がない

f:id:specialkimagurelife:20181229214515p:plain

通路が塞がれて出られない事例

最近、私がスーパーでアイスを買おうとした時のこと。手にアイスを持ちまっすぐレジに向かおうとしましたが、そう簡単にはいきません。両側の出口を塞がれてしまったのです。きちんと棚際に寄って商品を見てほしいというのが願いではありますが、せめて交差点にだけは停止しないでいただきたいです。混雑していなくても、交差点における長時間の停止は禁物でしょう。

 

まとめ

是非、混雑しているスーパーで買い物をするときは交通マナーを守り、みんなが気持ちよく買い物ができるように協力しましょう。

 

 

 

 

【善意を疑え】’善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない’という現実

ニーチェの言葉には共感するとともに、「悩み」を一瞬で解決してしまう驚異の力を持つ。

 

f:id:specialkimagurelife:20181228191500p:plain

 

善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない

 

❝善人❞というのは❝善い❞ことをしているという自覚をもって、❝善意❞を振りまく人のことを言う。

 

したがって、誰もその❝善意❞からの行為を咎めることを許されない。

 

もしくは、勇気を持ってその行為を非難したとしても、❝善人❞は自分の行為を反省することができない。なぜなら、❝善意❞からの行為であるからだ。誰しも、咎められるために❝善い❞ことをしようなどとは思っていない。逆に、❝善い❞ことをしたら、褒められる、あるいは感謝されると考えるのが普通である。

 

❝善い❞ことをしたら、褒められる、あるいは感謝されるべきである

 

という考え方は、是非辞めてほしいと思う。

 

 

 

❝善意❞の押し付けという非常に厄介な❝害悪❞は教育現場においてよく目立つ。

 

例えば、「体罰」。

 

もちろん❝悪意❞のある体罰は存在する。いけないと分かっていながらも暴力を振るう。しかし、このような場合は、周囲も非難しやすいし、❝悪意❞を持っているのだから体罰を加えた側も認めることができる。

 

しかし、上のような❝悪意❞を持った体罰以上に、❝善意❞を持った体罰の存在の方が非常に厄介な問題なのである。

 

自分は体罰を受けて強くなった。これまでも体罰によって強いチームをつくってきた。だから、体罰による教育は間違っていない。

(外部リンクですが体罰の依存に関する記事を張り付けておきます。)

ryukyushimpo.jp

 

誤った解釈であるが、それを真実だと思い、体罰を肯定することで、❝善意❞からの体罰が生まれる。

 

 

ここまで散々❝善意❞から生じる害悪について書いてきたが、私は決して❝善意❞を否定しているというわけではない。

 

❝善❞に関する基準は人それぞれあると思う。

 

個々の❝善❞の基準を否定するということは私はできないし、その基準に従って是非❝善い❞行為をしてほしいと思う。

 

しかし、これだけは分かってほしい。

 

自分自身の❝善意❞を疑えるのは自分だけということである。

 

自身の❝善意❞を疑うことが、厄介な❝害悪❞を社会からなくす唯一の方法なのである。

 

どうか、厄介な❝害悪❞の消滅に協力してほしいと思う。

 

 

 

以上。