どうして哲学的思考の人ほど生きずらいのか【いただきます=7万3000円】
哲学的思考を持つ人は、
常に考え、悩み、共感してもらえない孤独と戦っています。
たとえば、あなたは食事前の「いただきます」が大切か否かについて問われた時に、どのように考えるでしょうか。
「つくってくれた人、生き物に感謝をするのは当たり前だ!」ってゆう人は結構人生を楽しんでいるはずです(笑)。
その一方で、いやその「いただきます」には約3秒の時間を使いそれを一日3回……と考えてしまう人がいるのです(私がそうなのですからたくさんいるはずです)。
目次
- 1.生きずらい理由その1〔宗教的教育〕
- 2.生きずらい理由その2〔社会は当たり前だらけ〕
- 3.生きずらい理由その3〔時間が足りない〕
- 4.生きずらい理由その4〔生きる意味が分からなくなる〕
- 5.哲学的思考も無駄なわけではない
- 6.思考停止のすゝめ
1.生きずらい理由その1〔宗教的教育〕
日本の教育はある種の宗教なのではないかというような教育がされています。小学生のとき(あるい幼稚園保育園のとき)から、先生の言うことを聞くように教育されます。それに背けば、叱責という罰さえ受けます。そして、その先生絶対教育は義務教育が終了されるまで確実に行われ続けます。後から考えれば、案外先生によくわからない教育をされていたなという人もいるのではないでしょうか。また、中学生くらいになると先輩後輩関係が確立し、それは社会人になっても続いていきます。ここで、思うのは「あれ、人間って平等なはずじゃね?」ってことです。確かに、知識の浅い子供が無知のままなんでも行動するのは危険です。しかし、大人になって1つ年が違うからといって正直そこまでの違いは感じません。むしろ、年上の人でもあまりにも幼稚な考えを持っている人さえいます。しかし、そのような人にさえ敬語を使う必要を迫られるのです。しかも、「これなに?」が「これは何ですか?」と少々語尾が変わることによって何が変化するというのでしょうか。もちろん、実際に後輩から「これなに?」なんて言われたら私でも怒りますが、何がどう悪いのか納得できるように説明しろと言われたなら、それは私を非常に悩ませることになるでしょう。
私たちは、小さいころから先生は絶対だという教育や先輩は絶対だというような宗教的教育を当たり前のように受けてきているのです。
2.生きずらい理由その2〔社会は当たり前だらけ〕
哲学的思考の人は、当たり前に苦しみます。はじめに例として挙げたように「いただきます」という当たり前の行動でさえ考え、悩むのです。だって、
3(秒)×3(一日)×365(一年)×100(一生)=328,500(秒)
=91.25(時間)
なのです。これだけの時間があれば、時給800円のアルバイトでも7万3000円の価値になるのです。一生の「いただきます」と引き換えに7万3000円を失っているわけです。もしも、社会の当たり前をかき集めたとしたら、どれくらいの金額(価値)になるのか気になるものです。
3.生きずらい理由その3〔時間が足りない〕
周りの人が「いただきます」を3秒で終わらせる中、哲学的思考の人はそのたびに10分くらい時間がとられます。人によっては何時間も考えるかもしれません。しかし、その間に一般人(哲学的思考が薄い人)は、資格の勉強をしたり上司と飲みに行ったり仕事をしたりとゆうようなことにその時間を使っているわけです。正直、「いただきます」が必要か否かの答えが出たところで世間から評価が得られることは期待できませんし、日本の慣習から「いただきます」がなくなることはないでしょう。つまり、周りから見るとただの時間の無駄使いなのです。そして、その時間の無駄使い(100%無駄なわけではありません)を自覚していながら、その思考をやめられない自分との葛藤にさらに苦しむことになるのです。
4.生きずらい理由その4〔生きる意味が分からなくなる〕
誰しも生きる意味について考えたことはあるはずです。しかし、一般人はある程度のところで自分なりの答えを出し、また現実世界に目をむけ生きていくのです。しかし、哲学的思考を持つと答えのない「生きる意味」を探し続けることになります。「生きる意味」は、自分の人生に直接影響を与える問いでありますから、考えるとなると非常に深く考えることになります。このとき人は「アイデンティティが拡散している」状態と言えます。哲学的思考を持つほど自身のアイデンティティがなかなか確立しないために長い間苦しみ続けるのです。そして、死ぬまで生きる意味を見出せないのではないかと強い不安を抱くのです。
5.哲学的思考も無駄なわけではない
私は大学生になり「スポーツ哲学」という領域があることを知ります。高校二年生の時から「スポーツってそもそも何だろう?」と考えていた私にとっては、「スポーツ哲学」という領域を知っただけで半分答えが出たようなものでした。答えがないことを知ったのですから。運動生理学や運動指導というようないかにも役に立つと思われる研究と比べれば、「スポーツ哲学」という考えるだけの分野は一見無駄なように思われます。しかし、そのようなことはありません。例えば、「ドーピングの是非」について考えることは、オリンピックのルールを変えるようなことになるかもしれないのです(現段階ではその可能性は低いと思われますが)。ドーピングが認められることがないにしても、野球でホームクロスプレイの「リプレイ検証」が承諾されるなど細かいルールの変容はあります。時代とともにスポーツも変化しているのです。しかし、この「リプレイ検証」がスポーツの本質を壊すなどの意見もあります。このような哲学的思考をする人がいることにより、スポーツの「よさ」を守ることができるのです。つまり、哲学的思考の人は本当に大切な何か(非常に曖昧ではありますが)を守る可能性があるのです。
6.思考停止のすゝめ
哲学的思考を持つ人は、ある程度のところで思考を停止することをおすすめいたします。おそらく「それができれば苦労しないよ」って人がほとんどだと思いますが、それでも強制的に思考を停止させるよう努める必要があるのです。なぜなら、この世界で起こることのほとんどは人間の思考でどうにかなるものではないからです。いつ、でっかい隕石が地球にぶつかり自転が止まるかすら想像できないのです。人間の思考に限界があることを認めて、自らの思考を止めるのです。しかし、ずっと止めていてはそれもいけません。ここぞというときに、その哲学的思考を発揮しなければいけません。それは「いただきます」のようなことではなく、どちらかというと「リプレイ検証」のようなことがよいでしょう(どちらに発揮しても無駄ということはありません)。ここの判断はあなた個人にまかされます。是非、哲学的思考をうまくコントロールして、よい方向にそれを発揮してほしいです。
以上、 どうして哲学的思考の人ほど生きずらいのか【いただきます=7万3000円】でした。