【人生は解釈】思考が暴走しがちな一般大学生。

”思考”をアウトプットせずにはいられない大学生によるブログです。

「スポーツをやらない権利」はどこへいったのか

「スポーツをするかしないかということは、誰によってもまたなにによっても侵すことのできない人間の権利としての『私事』に属するということである。」(中村敏雄)

 

 

人間はスポーツをする権利を持つと同時に

 

スポーツをしない権利

 

を持っているのである。

 

しかし、この「スポーツをしない権利」というのが近年侵されつつあると言わざるを得ない。

 

特にそれを感じさせられるのが「体育」の授業である。「体育」の授業というのは小学校・中学校・高校にさらには大学に至るまで必修(少なくとも私の大学はどの学部も必修となっている)の授業となっている。そして、スポーツを強制的にやらされるその状況に違和感を覚えることもなく、そういうものだと解釈しながらその課程を終える。

 

しかし、私たちはこの状況に違和感を覚えるべきであろう。

 

まず、スポーツは一般的に「遊戯、闘争、および激しい肉体運動」(ベルナール・ジレ)の要素があるといわれている。

(より深く考えるとスポーツとは何かという話になるがこれは問いが間違っている可能性が考えられるのでここでは問うことはしないでおく)

 

つまり、スポーツをしない権利を奪われてしまうと、強制的にその競技をやらされる状況が生まれ、その結果「遊戯性」が失われる。すなわち、そもそもその瞬間にその人にとってそのスポーツはスポーツたり得ない状況が生じるのである。

 

そういった意味で「スポーツをしない権利」を侵されてはならないのである。

 

私がこれだけ「スポーツをしない権利」を強調するのは、部活動をやめる権利とも関係してくる。私は数か月前大学の部活動(正確にはサークルであるが部活動に近い)をやめたが、その理由として「競技に熱中できなかったから」と正直に述べた。私の部活動は幸いなことに、様々な「権利」に関して理解のある顧問と部活仲間であったため正当な理由として受け入れられたが、「競技に熱中できなかったから」が受け入れられる部活動というのは現時点ではあまりないのではないかと感じられる。

 

 

 

私たちは「スポーツをする権利」と同時に「スポーツをしない権利」をもっと大切にしていくべきではないだろうか。

 

 

*突っ込みどころが満載な文章ではありますが、「スポーツをしない権利」について考えるきっかけになってもらえると幸いです。