「安逸」は”悪”であろうか
最近私は「安逸」という熟語を知った。
(大学生ながらに恥ずかしいことではあるが私は語彙が少ないということを自覚している)
安逸・・・気楽に過ごすこと。何もせずにぶらぶらと遊び暮らすこと。また、そのさま。(goo辞書)
しかし、勘の鋭い人であれば、安逸をむさぼることが必ずしも悪いことなのであろうかという疑問が生じるかもしれない。
気楽に過ごすこと=悪
何もしないこと=悪
遊ぶこと=悪
と断言できる根拠があるだろうか。
もしも、気楽に過ごすことが”悪”であるとするならば、人はいつも「気苦労」あるいは「気掛かり」な状態で生きていなければならなくなる。常に、何かに気を配っていたり心配したりしていることが必ずしもよい状態であるといえるだろうか。
もしも、何もしないことが”悪”であるとするならば、人は生きているだけも意味があるということを全力で否定していることになる。何もしない草木に向かって何もしないものは生きる意味などないといえるだろうか。
もしも、遊ぶことが”悪”であるとするならば、人間にとって「遊んでいない状態」とはどのような状態を示すのだろうか。人は常に”生きるという遊び”をしているではないか。
しかし、私は「安逸」を全力で肯定するということはできない。
というよりは、するべきではいと考えている。なぜなら、気楽に過ごすこと・何もしないこと・遊ぶことは人間の”弱さ”から生じる可能性が比較的高いからである。
確かに、上に示した「安逸」に対する肯定的な見解に対して、完全に否定できるだけの力量は私にはないのだが、それを肯定することが自分にとって”よい”ことであるとはとうてい思えないのである。
ニーチェの弱さから生じるすべてのものが”悪”であるの考え方からすれば、やはり「安逸」は”悪”であり避けるべきものであると言わざるを得ないであろう。