なぜきのこ党はたけのこ党に負けるのか~交絡因子~
*この記事は圧倒的きのこ派の私が偏った視点からたけのこ派に勝てない理由を考察したものです。
きのこ党:42%
たけのこ党:44%
どっちも党:14%
私はどうしてもこの結果に納得できません。
なぜなら、どう考えてもきのこの山のほうが美味しいからです。
きのこ好きの人間からすると総選挙では80%くらいの票をとってきのこ党が勝つと思っているのです。
そこで、今回は全世界の80%の人々がきのこ派であることを前提に、なぜきのこ派がいつも投票で負けるのか考察してみたいと思います。
*目次*
きのこ派は謙虚
きのこ派は謙虚な人が多いのかもしれません。自分はたけのこよりもきのこのほうが好きだけれど、たけのこが好きという人の意見も尊重したい。だから、きのこ派は一歩引いてしまうのです。しかし、内に秘めたきのこ愛は強いので、きのこ派?たけのこ派?と聞かれると必ず、きのこ派と正直に答えます。一見全世界でたけのこ派のほうが多いと感じるのは、きのこ派の人が自らそのことを主張しないからではないでしょうか。また、どっちも党が多いのもきっと本当はきのこ派だけどたけのこも決して美味しくないわけではないから、たけのこがかわいそうと感じてどっちも党に投票しているのでしょう。
きのこ派は大人
きのこ派は無駄な争いを嫌う大人な考えを持っているかもしれません。別に投票結果でたとえたけのこ派のほうが多かったところで、きのこの里が販売されなくなるようなことはありません。大人な考えを持つきのこ派はそんな争いの無意味さを理解し、わざわざ投票しようという気もちにもならないのです。また、投票する時間があったら、少しでもアルバイトなりをしてお金を稼ぎ、きのこの里を毎日美味しくいただきたいと考えるのです。
きのこが勝って当たり前
きのこ派の人々はきのこが圧倒的勝利をするものだと思い込み、自分の一票の必要性を感じていないのかもしれません。他のきのこ仲間が投票してくれるからと他人任せにしすぎるところはきのこ派の悪い部分であるといえますが、それぐらいきのこの山のほうが美味しいと心の底から思っているのです。その結果、積極的に行動を起こす人々が多いたけのこ党が勝利を収めるという結果に至ってしまったのでしょう。
まとめ
この記事で何が言いたいかというと、
投票数が多い≠人気
というということです。一見投票数が多ければそれに比例して人気があるように思えるかもしれませんが、データは必ず交絡因子を考慮する必要があります。もしも本当に、きのこ派は謙虚、大人、勝って当たり前と思い込んでいるという傾向があったならば、今回の投票結果では、どちらが人気か適切に判断できるとはいえないでしょう。しかし、私たちきのこ派はおそらくこの投票結果を受け入れる必要があるでしょう。なぜなら、きのこ派は謙虚、大人、勝って当たり前と思い込んでいると断言できる論拠がないからです。それでも、私は全世界できのこ派のほうが多く存在するという可能性を求めて、これからもきのこ派が負ける理由を調査していきたいと考えています。
小さなことで喜べる人とそうでない人
世の中には、小さな成功で喜べる人と
小さな成功では喜んでいられない人とがいます。
別に、どちらが悪いということではありません。
それぞれに良いところがあるのです。
*目次*
小さなことで喜べる人の良いところとは?
今に幸せを感じられる
幸せを感じられることは充実した生活を送るうえで非常に重要なことです。子どものころであれば晩御飯がカレーライスであると聞いただけで喜んでいたのではないでしょうか。いつになってもカレーライスで喜べる人は、いつになっても今に幸せを感じられる人です。今後も、日々の生活に満足しながら生きていくことができるでしょう。
着実に進歩できる
小さなことで喜べる人は、小さなことでも自分にできることを見つけて自分のものにしていきます。自身の成長に喜びを感じることができるので、挑戦することが苦になることがありません。たとえ挑戦して失敗したとしても、成功に近づいている自分に成長を感じて喜ぶことができるのです。小さなことで喜べる人は、小さな成長を積み重ねることができる人でしょう。
小さなことに気が付く
小さなことで喜べる人は、小さなことによく気が付く人です。それは、自分に対してもそうでありますし、他人に対しても同じです。他人の良いところに気が付くことができるのです。もしも、自分の良いところが分からないといって困っている人がいたら、その人の手助けをすることができるはずです。
無知を認めることができる
喜びというのは、自身の成長や成功に対しても生じます。成長や成功に対してその都度喜べるというのことは、過去の自分の無知や能力の不足を認めることができることを意味します。自分の無知や能力の不足を認めることは、自分を育てるうえで大切なことです。
小さなことでは喜べない人の良いところとは?
自信を持っている
もともと自分の行動に自信を持っている人は、小さな成功で動揺することがありません。たとえば、高校生で数Ⅱの勉強をしている人が、掛け算ができることに喜びを感じません。そして、掛け算ができることに自信を持っているので、それが応用問題になったとしてもそれを解けることに自信を持っています。小さなことで喜べない人は、自分の行動に自信を持つことができる人でしょう。
向上心が高い
小さなことで喜べない人は、より大きな成長や成功を求める人です。現状で満足することなく、常により高いところを目指しています。大きな喜びを求めて行動できる、非常に志が大きな人と言えるでしょう。
時間を有効に使える
時間を有効に使う意識の強い人は、次の成功に向けて時間を使おうとします。そのため、過去のことをいつまでも頭に残しておくわけにはいかないのです。小さな喜びは成功体験として置いておき、いち早く次の行動に移すことができます。したがって、短時間で目標に到達することができるでしょう。
カッコいい
小さなことで喜べない人は、比較的男性に多い気がします。常に大きな夢を掲げ「そんな小さなことで喜んでいるわけにはいかない!」と言っている人を見ると、その迫力に圧倒されます。カッコいいオーラを放つことは、周囲に何かしらの影響を与えることに間違いありません。
おわりに
おわりに
小さなことで喜べる人も、小さなことで喜べない人にもそれぞれの良いところがあります。こんな小さなことで喜んでいていいのだろうかと悩んでいる人や小さなことで喜べないと悩んでいる人に、少しでもそのメリットを知り自信を持っていただければ幸いです。
置き忘れ注意の話から「傘」がゲシュタルト崩壊を起こしクリスマスツリーになるまで【雑談】
*前置き(小説風)*
昨日の朝、雨が降りそうだったので傘を持って行った。大学のどこかに傘を置き忘れるというのが日常茶飯事であった私は、ツイッターに、「今日学校に傘を忘れてくる予感しかしない、、、」と書き込んだ。こうすることで、大学に傘を置き忘れることを防ごうと考えたのだ。
もちろん傘を忘れないために様々な工夫をした。傘立てには傘を立てない、移動のたびに傘の所持を確認するなど。その結果、私は帰りのバスを降りるまでその傘を持っていることができた。
しかし、その後だ。なんと傘を立ててしまったのだ……傘立てに。私はどうしてもミルクティが飲みたくて、コンビニに寄ったのだった。ミルクティを買った私は、その味に満足して家まで歩いた。
次の日の朝。……傘がない(涙)。
【傘を忘れないために】
1.ツイッターに書き込む
2.傘立てに立てない
3.移動のたびに傘を確認
4.コンビニに寄らない〔New!〕
5.家に着いたら傘を確認〔New!〕
これだけ「傘」という字を打ち込むと、ゲシュタルトが崩壊してきそうだ。
↑もともとゲシュタルトが崩壊したような「傘」ですいませんm(__)m
【完成】「傘」の面影もほとんどなく立派なクリスマスツリーになりました!
以上、暇な大学生の雑談に付き合っていただきありがとうございました。
*季節外れでごめんなさい
どうして哲学的思考の人ほど生きずらいのか【いただきます=7万3000円】
哲学的思考を持つ人は、
常に考え、悩み、共感してもらえない孤独と戦っています。
たとえば、あなたは食事前の「いただきます」が大切か否かについて問われた時に、どのように考えるでしょうか。
「つくってくれた人、生き物に感謝をするのは当たり前だ!」ってゆう人は結構人生を楽しんでいるはずです(笑)。
その一方で、いやその「いただきます」には約3秒の時間を使いそれを一日3回……と考えてしまう人がいるのです(私がそうなのですからたくさんいるはずです)。
目次
- 1.生きずらい理由その1〔宗教的教育〕
- 2.生きずらい理由その2〔社会は当たり前だらけ〕
- 3.生きずらい理由その3〔時間が足りない〕
- 4.生きずらい理由その4〔生きる意味が分からなくなる〕
- 5.哲学的思考も無駄なわけではない
- 6.思考停止のすゝめ
1.生きずらい理由その1〔宗教的教育〕
日本の教育はある種の宗教なのではないかというような教育がされています。小学生のとき(あるい幼稚園保育園のとき)から、先生の言うことを聞くように教育されます。それに背けば、叱責という罰さえ受けます。そして、その先生絶対教育は義務教育が終了されるまで確実に行われ続けます。後から考えれば、案外先生によくわからない教育をされていたなという人もいるのではないでしょうか。また、中学生くらいになると先輩後輩関係が確立し、それは社会人になっても続いていきます。ここで、思うのは「あれ、人間って平等なはずじゃね?」ってことです。確かに、知識の浅い子供が無知のままなんでも行動するのは危険です。しかし、大人になって1つ年が違うからといって正直そこまでの違いは感じません。むしろ、年上の人でもあまりにも幼稚な考えを持っている人さえいます。しかし、そのような人にさえ敬語を使う必要を迫られるのです。しかも、「これなに?」が「これは何ですか?」と少々語尾が変わることによって何が変化するというのでしょうか。もちろん、実際に後輩から「これなに?」なんて言われたら私でも怒りますが、何がどう悪いのか納得できるように説明しろと言われたなら、それは私を非常に悩ませることになるでしょう。
私たちは、小さいころから先生は絶対だという教育や先輩は絶対だというような宗教的教育を当たり前のように受けてきているのです。
2.生きずらい理由その2〔社会は当たり前だらけ〕
哲学的思考の人は、当たり前に苦しみます。はじめに例として挙げたように「いただきます」という当たり前の行動でさえ考え、悩むのです。だって、
3(秒)×3(一日)×365(一年)×100(一生)=328,500(秒)
=91.25(時間)
なのです。これだけの時間があれば、時給800円のアルバイトでも7万3000円の価値になるのです。一生の「いただきます」と引き換えに7万3000円を失っているわけです。もしも、社会の当たり前をかき集めたとしたら、どれくらいの金額(価値)になるのか気になるものです。
3.生きずらい理由その3〔時間が足りない〕
周りの人が「いただきます」を3秒で終わらせる中、哲学的思考の人はそのたびに10分くらい時間がとられます。人によっては何時間も考えるかもしれません。しかし、その間に一般人(哲学的思考が薄い人)は、資格の勉強をしたり上司と飲みに行ったり仕事をしたりとゆうようなことにその時間を使っているわけです。正直、「いただきます」が必要か否かの答えが出たところで世間から評価が得られることは期待できませんし、日本の慣習から「いただきます」がなくなることはないでしょう。つまり、周りから見るとただの時間の無駄使いなのです。そして、その時間の無駄使い(100%無駄なわけではありません)を自覚していながら、その思考をやめられない自分との葛藤にさらに苦しむことになるのです。
4.生きずらい理由その4〔生きる意味が分からなくなる〕
誰しも生きる意味について考えたことはあるはずです。しかし、一般人はある程度のところで自分なりの答えを出し、また現実世界に目をむけ生きていくのです。しかし、哲学的思考を持つと答えのない「生きる意味」を探し続けることになります。「生きる意味」は、自分の人生に直接影響を与える問いでありますから、考えるとなると非常に深く考えることになります。このとき人は「アイデンティティが拡散している」状態と言えます。哲学的思考を持つほど自身のアイデンティティがなかなか確立しないために長い間苦しみ続けるのです。そして、死ぬまで生きる意味を見出せないのではないかと強い不安を抱くのです。
5.哲学的思考も無駄なわけではない
私は大学生になり「スポーツ哲学」という領域があることを知ります。高校二年生の時から「スポーツってそもそも何だろう?」と考えていた私にとっては、「スポーツ哲学」という領域を知っただけで半分答えが出たようなものでした。答えがないことを知ったのですから。運動生理学や運動指導というようないかにも役に立つと思われる研究と比べれば、「スポーツ哲学」という考えるだけの分野は一見無駄なように思われます。しかし、そのようなことはありません。例えば、「ドーピングの是非」について考えることは、オリンピックのルールを変えるようなことになるかもしれないのです(現段階ではその可能性は低いと思われますが)。ドーピングが認められることがないにしても、野球でホームクロスプレイの「リプレイ検証」が承諾されるなど細かいルールの変容はあります。時代とともにスポーツも変化しているのです。しかし、この「リプレイ検証」がスポーツの本質を壊すなどの意見もあります。このような哲学的思考をする人がいることにより、スポーツの「よさ」を守ることができるのです。つまり、哲学的思考の人は本当に大切な何か(非常に曖昧ではありますが)を守る可能性があるのです。
6.思考停止のすゝめ
哲学的思考を持つ人は、ある程度のところで思考を停止することをおすすめいたします。おそらく「それができれば苦労しないよ」って人がほとんどだと思いますが、それでも強制的に思考を停止させるよう努める必要があるのです。なぜなら、この世界で起こることのほとんどは人間の思考でどうにかなるものではないからです。いつ、でっかい隕石が地球にぶつかり自転が止まるかすら想像できないのです。人間の思考に限界があることを認めて、自らの思考を止めるのです。しかし、ずっと止めていてはそれもいけません。ここぞというときに、その哲学的思考を発揮しなければいけません。それは「いただきます」のようなことではなく、どちらかというと「リプレイ検証」のようなことがよいでしょう(どちらに発揮しても無駄ということはありません)。ここの判断はあなた個人にまかされます。是非、哲学的思考をうまくコントロールして、よい方向にそれを発揮してほしいです。
以上、 どうして哲学的思考の人ほど生きずらいのか【いただきます=7万3000円】でした。
私は、「はじめは誰でもそんなもんだよ」が信用できない
はじめは誰でもそんなもんだよ、何かを始めたばかりの人がその業界で成功した人によく言われる言葉です。
その言葉をあなたはどれくらい信じていますか?
そうなのか!みんなこんなもんなのか、と思える人もいるかもしれません。
しかし、多くの人は「本当に大丈夫かなぁ…」と不安になるのではないでしょうか。
「はじめは誰でもそんなもんだよ」と言われて不安になる心理について分析してみました。
目次
1.結局伸びなかった
頑張ったけど結局伸びなかった。そういう経験は誰しもあるのではないでしょうか。私は中学・高校とソフトボールをしていました。中学の時、人一倍素振りをしていた私を見て、コーチはわたしに「絶対いいバッターになる」と褒めてくださいました。しかし、中学の引退試合になっても外野の頭を超える打球は打てませんでした。私は、素振りを頑張れば外野の頭を超える打球が打てるようになるのだと思っていたのです(冷静に考えれば量だけではダメだと分かるのですが、褒められると自分は正しいことをしていると思い込むものです)。「はじめは誰でもそんなもんだよ」と言われて続けて、結局理想の場所まで行きつけなかった経験があるとだんだんとその言葉が信じられなくなっていきます。
2.伸びたけれど時間がかかった
頑張った結果理想の地点まで届いた。一見そのような人たちは次何か始めるにしても、自分の伸びしろを信じられるような気がします。しかし、そうでないことも多いようです。それは、結果が出るまでに多大な時間を要したり、大きな苦労をしてきた場合です。そのような人たちは、次何か始めようとしても、時間がかかることや苦労しなければならないことを考えると、それを始めるのに少し抵抗を覚えるのです。そんなときに「はじめは誰でもそんなもんだよ」と声をかけられても、納得はできるがやろうとは思えないのです。達成し得る能力があるにも関わらず非常にもったいないです。
3.伸びた先が行き止まりだった
私は、中学の時ピッチャーをやっていました。毎日試行錯誤しながらピッチングをしていた結果、スピードもコントロールもよくなり、県大会でベスト4に入れるくらいの実力をつけることができました。それは、自分にとって満足のいく結果で理想の状態と言えました。しかし、高校に入って、人数の関係でピッチャー以外のポジションを守ることになりました。その時に気が付いたことは、これまで試行錯誤して身につけたスピードやコントロールは発揮する場所はなくなり全く意味をなさないものになったということでした。そのようなことが、スポーツ以外の場所でも起きうるのです。あんなに一生懸命資格の勉強をしたけれど、結局全然違う職に就いたなど、、、。
結局成長したはいいものの、それが発揮されることがなかったり、発揮できる場所を半強制的に奪われてしまうということがあります。しかし、もしかしたらそれはそこまで気にする必要はないかもしれません。あの、リンゴマークで有名なapple社のスティーブ・ジョブズ氏はこう言いました、「connecting the dots(点と点をつなぐ)」。つまり、試行錯誤してピッチングをしてきたことも、職に関係ない資格取得も何かしらにつながるということです。確かに、ピッチャーをしていたことでその心理状況が読めた結果、打率が上がったなどがあったかもしれません(点と点が繋がる自覚はあまりないものなのでしょう)。たとえ、成長した先が行き止まりだったとしても、そこまでの過程で学んだ知識や経験は決して無駄にならないのです。自覚は無いとしても、それらはちゃんと自分だけの財産になっているはずなのです。
4.頂上を見ながらふもとを登ることを楽しむ
しかし、やっぱりそこまで言われても「はじめはそんなもの」が信じられないという人もいるはずです。では、もういっそのこと結果に期待するのはやめてしまいましょう(笑)。でも、決してあきらめるということではありません。別に結果が出なかったからといって損をすることはないと割り切って、前に進み続けるのです。例えば、大きな山を登り始めるとき人は頂上を目指して進みます(同じ高さを歩き続ける人はかなりの変態です←いたらすいません)。そこで、もし頂上に行きつけなかったとしても、その途中途中の風景や登る過程を楽しめればそれでよいのではないでしょうか。実は、その過程が楽しめるということ自体が登り続けた証にもなるのです。楽しみ続けてたどり着いた場所が頂上であったならば、それは喜ばしいことです。ですので、はじめから頂上にたどり着くことに期待せず、登ること自体を楽しめばよいのです。
5.一喜冷静一憂冷静
説明した通り、進み続けること・登り続けることは大事です。しかしその過程で、目の前の成功や失敗に一喜一憂して終わっていてはいけません。一喜するのはよいことです。一憂するのもよいことなのです。人の感情に無駄なことは一切ありません。しかしそのたびに冷静になり、なぜ成功したのかやなぜ失敗したのかを考えることが次につながってくるのです。そのために、たまには客観的に自分の行動を見てみる必要があります。本当に自分は前に向かって進んでいるのか。本当に自分は登っているのか。もしかしたら、自分はランニングマシンの上で足を動かしているだけかもしれない、自分は下りのエスカレーターを一生懸命登っているだけなのかもしれない。そうやって、たまに自分の行動を少しだけ疑うことは必要なのではないでしょうか。
6.まとめ
まず、私が「はじめは誰でもそんなもんだよ」が信じられないと思ったきっかけは、このブログです。いま執筆している最中にも、本当にこのブログが誰かに読まれることがあるのだろうかと疑いの念を抱いているわけです。おそらく、このブログにスターが付いた日には飛び上がるくらい喜び、PV数がゼロだった場合にはパソコンを半径1メートル以内に近づけたくないくらい哀しむことでしょう。しかし、私はどちらにせよ冷静になる必要があるのです。客観的に自分のブログ(あるいは他の人のブログ)をみて試行錯誤していけばいいのです。そして、いつか誰かに「はじめは誰でもそんなもんだよ」と言ってみたいのです。
以上、私は「はじめは誰でもそんなもんだよ」が信用できないでした。
暇な大学生が海に沈む夕陽を見て美しいと感じた心理を分析して分かった5つのこと
夕陽は本当に美しいです。
当たり前な話なのですが、私は青い空を見るときよりもオレンジ色の夕陽を見るときの方がうっとりしてしまいます。
そんな、夕陽の魅力とはいったい何なのでしょうか?
目次
1.大きなキャンパスに描かれるグラデーション
お昼にも夜にも見ることができない、夕方だけにオレンジから紺色の鮮やかなグラデーションをみることができます。グラデーションは、絵画を描くときに手法として用いたり、髪色をグラデーションにしてみたりと様々な場面で用いられることから、グラデーションが人の感覚に訴える影響は大きいと考えられます。そんなグラデーションが、自然という大きなキャンパスの中に描かれるわけですから、美しいと感じないはずがないのです。
2.暖色系の光
人間は比較的暖色の場所が落ち着くと言われています。たとえば、白熱灯が敷き詰められたショッピングモールよりも、ホテルのオレンジ色の光が落ち着きます。つまり、暖色であるオレンジ色の夕陽に包まれると自然にこころが落ち着くのです。
3.逆光によるコントラストの強調
夕陽にカメラを向けると必ず逆光になる(当たり前ですが…)ように、人の眼にも多くの光が入ってきます。そして、夕陽以外のものは暗く見えます。つまり、夕陽を眺めている間は、夕陽以外のものが眼に映らないのです。夕陽を見ることで、それ以外のものが見えなくなり、現実を一時だけ忘れることができるのです。
4.一日の終わり
多くの人は昼間に活動します。朝から働いたり勉強したり忙しくしていると、夕方になるころには心身ともに疲れ切っているものです。そして、この忙しさは永遠に続くのではないかと思うとそれだけで余計疲れてしまします。そこで、夕陽を見ることで一日の終わりを感じることができるのです。ですので、毎日夕陽をみて「今日も一日頑張った」と自分をほめてあげるとよいかもしれません。
5.「美しい」は無知の知の領域
夕陽が美しい理由なんて、正直誰も「知らない」のです。なぜなら、人間が持つ感情というものは謎に包まれていて、地球から離れた太陽と宇宙の色がつくりだすグラデーションなんて言ったらもう、私たち(天文学者を除く一般人)には分かり得ない領域なのです。もしかしたら、夕陽が美しいと感じる理由を分析する必要などないのかもしれません。ただただ、夕陽を見て「ああ、美しい」とみとれるだけでいいのではないかしょうか。
以上、暇な大学生が海に沈む夕日を見て美しいと感じた心理を分析して分かった5つのことでした。
めんどくさがりやの私が【めんどくさいとは何か】真剣に考えようとした結果やっぱりめんどくさくなった話
ああ、めんどくさい
って毎日のようにつぶやいていませんか?
いったいめんどくさいとは、どのような感情なのでしょうか???
目次
- 1.面倒臭いの意味
- 2.日常生活で私が面倒くさいと感じること12個
- 3.「めんどくさい」は本当に面倒臭い行動を伴うのか
- 4.「めんどくさい」と所要時間
- 5.無駄なエネルギー消費を抑える
- 6.行動に意味を見出せるか
- 7.字を書くのがめんどくさい
1.面倒臭いの意味
面倒臭いとは、Weblio辞書によると「手数がかかってわずらわしい。大変やっかいだ。」という意味があるようです。しかし、手数がかかってやっかいなことも、時間をかけて手順を踏めば必ずできてしまうはずです。それにも関わらず、人がその面倒臭いことをしようとしないのに原因があるはずなのです。
2.日常生活で私が面倒くさいと感じること12個
あ、字が汚いのはすいません。大学生女子の字とは思えませんが、きれいな字を書くのもめんどくさいのです。許してください(笑)。
1.歯磨き
2.食器洗い
3.ゴミ出し
4.カーテンを開ける
5.洗たくたたみ
6.忘れ物をとりに返る
7.サイクリングの準備
8.料理
9.字をきれいに書く
10.レポート
11.朝起きる
12.使ったものはもとにもどす
3.「めんどくさい」は本当に面倒臭い行動を伴うのか
こんな感じで、日常生活でめんどくさいと思う行動が、実際にはどのような行動からなるものなのか考え、それにかかるおよその時間を書き出してみました。
途中で面倒臭いと感じましたので、上半分は省略です。
4.「めんどくさい」と所要時間
めんどくさいと感じたとき、多くの人はその行動に時間がかかるからと自分に言い聞かせてはいないでしょうか。それは、どうやら違うみたいです。例えば、カーテンを開ける(こんなのめんどくさくないって人もいると思いますが、私の場合はめんどくさくて左右にシャーッ!シャーッ!ってテキトウにやって終わらせてしまうのです)のなんかは20秒もあればできてしまいます。20秒を日常生活で確保できない人は、毎朝寝坊する人くらいでしょう。また、洗濯たたみなんかも10分あればできるはずなのです。寝る前にたたんでしまえばそこまで時間をとられている感じはしないでしょう。他も同じです。めんどくさいを時間がないからという言い訳で済ませて本当によいのでしょうか。
5.無駄なエネルギー消費を抑える
めんどくさいと感じることは必ずエネルギーを消費する行動です。しかし、激しい運動はめんどくさくなくても、立つという動作がめんどくさいと感じることを考えれば、おそらく身体活動のエネルギー消費だけが原因ではないことが考えられます。身体を動かす以外にエネルギーを多く消費するのは脳です。まず何をして、次に何をして、その次は……と考えることに非常に多くのエネルギーを消費します。脳のエネルギー消費を避けるために、本能的にめんどくさいという感情が働くことが考えられます。
6.行動に意味を見出せるか
もしも、非常にのどが渇いていて今にも干からびそうって時に、冷蔵庫にお茶を取りに行くのをめんどくさいと思いますか?おそらく、めんどくさいと思う前に冷蔵庫を開けてお茶を飲んでいるはずです。つまり、本能的にその行動をしなければ「やばい!」ってゆう状況になれば、なんでもしてしまうものなのです。その点は、鍛冶場の馬鹿力というものと似ている部分があります。普段は、自分を守るためにも省エネで過ごし、いざというときの為にエネルギーを蓄えているのです。もしかしたら、めんどくさがりやの人ほど「やばい!」って時に放出されるエネルギーの量ははかり知れないものなのかもしれません。
7.字を書くのがめんどくさい
私は、上の画像のように途中で字(行動を思い出すのもめんどくさいの一つですがおいておきます)を書くのがめんどくさくなり、書くのをやめてしまいました。普段、大学の講義を受けていても、書き写さなければいけないことなどがあると非常にめんどくさく感じます。別に自分がみるノートなので汚くてもいいのですが、結構真面目に講義を受けている(自分で言うのもなんですが)私は、たまに「ノートみせて~」と言われるわけなのです。そんなときだいたい私は、絶対他の人のノート見た方がいいと忠告しながら渡すわけです。それくらい書くという作業が面倒なのも、おそらくきれいな字を書かないとやばいという危機的状況になったことがないからと言えるでしょう。もしかしたら、これから先字が汚くて損をする場面があるかもしれませんが、実際にその場面になってみない限り私が字を書くことに多くのエネルギーを消費することはないと思われます。
では、そろそろパソコンでタイプすることもめんど……〔省略〕。
以上、めんどくさがりやの私が【めんどくさいとは何か】真剣に考えた結果やっぱりめんどくさくなった話でした。
*パソコンでタイプするのは字を書くほどでないにしてもめんどくさいものですね 誰か考えただけでブログが完成してしまう魔法の装置を発明してくれないものでしょうか